2010年1月22日 15:47
カテゴリ:[
利用規約など
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タグ:[
著作権
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こんにちは、chikiです。
はじめましてのかたは、あらためまして、はじめまして。
前回は、先住民族における文化の考えかた、つまり「だれかがつくったものがみんなのものとなる」ということが、ウェブ空間での創作活動によく似ているというところで終わりました。
今回は、このことについておはなしします。
「つくった作品が、それをつくった人のものになる」というのは、誤解をおそれずにいえば、文明社会の考えかたです。
これに対して、先住民族では、これもあえて乱暴にいうと、作品がだれか「だけ」のものという考えかたがありません。基本的に、作品や文化は「つくった人をふくめたみんなのもの」になります。
そして、「みんなのもの」とはいっても、だれもがその作品、その文化を勝手にあつかえるわけではありません。みんなの同意なしに、社会や民族のそとに作品をゆずりわたすようなことはできませんし、そうするときにはじぶんたちの文化にしたがい、みんなの利益になるようにしなければなりません。
こうした文化のありかたというのは、文化の発展ということでいえば、文明社会の考えかたよりもずっとすぐれた一面ももっています。
#もちろん、文明社会の考えかたとくらべてよわい一面ももっています。
#全体としてどちらがよりすぐれた考えかたということをくらべることはできません。
そしてこうしたことは、ウェブ空間での創作文化によく似ている点もあるようにchikiは思うのです。
数年前のことになりますが、ウェブ空間で人気のあるアスキーアートによく似たキャラクターが商標登録されようとして、大さわぎになったことがありました。
これは、「みんなのもの」が「みんなの合意なしに」「勝手に誰かのもの」になるのではないかとおもわれたことからうまれた、ネットユーザーによる巨大な反発でした。
ウェブ空間での創作活動は、ひろい視野でみれば、先住民族の文化のように、「みんなのもの」「みんなの文化」「みんなの利益」ということをなによりも重視するということが大きな原理になっているといえるでしょう。
しかしながら、現代社会においては、先住民族のほとんどは、法的にはいずれかの国家に属しています。そして、現代における国家のほとんどは、文明社会でその原則がうまれた著作権法をもっています。
ところで、上の文章は、先住民族のところをネットユーザーにいれかえてもなりたちます。そして、そのことがchikiの、そしてわれわれクリプトンの大きななやみのひとつになっているのです。
それがなにか、ということについては、次回をおたのしみに。
それでは、また!
(知規)
今回も興味深い話ですが、ちょっと異論があります。
先住民族の文化は「みんなのもの」というよりは「誰のものでもない」だと思います。
「みんなのもの」というと、そこには自分の分もふくまれるということになります。
でも昔の人々はおそらくそうは考えていなかった。
万物は神々のものであるから「誰のものでもない」と捉えていたんだと思います。
そこには著作権は生じないんでしょうね。
職人は大自然の恵みを巧みに加工するものとして尊敬されるだろうし、作品に対して誇りも持つだろうけど、それを自分ひとりだけの「著作物」などとは思わないでしょうから。
投稿者 チューハイ : 2010年1月22日 17:23
先住民族って何ですか?
単に古代の人々って意味ですか?
だいたいは侵略とかで、滅亡させた原住民族を侵略した民族から見て言うとかだと思いますが。
文脈からすると、現代人から比べて、未開の地に住む文明化されてない原住民のような人かもしれませんが。
彼らはまだ先住民にはなっていませんし(滅びていないし、立ち退いてもいないので)。
解説お願いします。
投稿者 mode : 2010年1月22日 21:42
文明社会でない、先住民族が、たとえば自分の作り出したモノに対して、
自分が作ったという主張をしなかったというのは、本当にそうなんでしようか。
疑問です。
狩の技術、道具、農耕の知恵。
そういたものは共有したと思いますが、たとえば優れた道具を作った人が称えられたりということは無かったんですかね。
それで称えられる事を誇りにして、道具作りに秀でた人がいたり。
それは、あったとすればすでに法律こそ無いものの著作権的なものがあったと思いますし、あるとも思います。
また、そういう民族は、小集団で暮らしているので、その集団、部族や一族のアイデンティティーはあります。
そうしたものは、シンボルとして、道具にデザインが刻まれたり、刺青のデザインが個人のシンボルだったり、
まさに、創作物工芸物の意匠を自己の主張とした、現在の著作権意識に通じるものがあると思います。
規模の違いはあれど、人間と社会には共有していくものと自己のオリジナルを主張するものは、どこにもあるのではないでしょうか。
芸術に対して法的な保証として著作権が謳われるようになったのは近代以降としても
むしろ、本質的に文明の薄い社会にも、著作権的な考え方は根底にあって、
経済社会の中で法制化されたというだけの違いのような気がします。
ですから、先住民族の営みを、著作意識やオリジナル主張の対極に置くのは、間違いのような気がします。
投稿者 mode : 2010年1月23日 02:41
先住民族は共同で生活していたし、おそらく食糧ら道具なども分かち合ってた。だからそもそも所有という概念がない、もしくは薄かったのだと思います。(それが良いか悪いかはべつとして)
だから誰かが作った作品も当然のように共有出来た。
共有していたという意味ではみんなのものといえるし、所有という概念がないという意味では誰のものでもないという捉え方もできそうです。
ただ、いずれにせよ作者がいない限り作品は存在しないのだから、
作者には敬意をもって作品に接するべきで、他人の作品をさも自分のもののように主張するのは愚かしい行為だと思います。
投稿者 くうべ : 2010年1月23日 19:49
>チューハイさま
ご意見、ありがとうございます。
チューハイさまのお考えも正しいとおもいます。
ただ、どちらの考えかたを取るにしても、著作権法的な考えかたとどこかで対立してしまう、そういうことを書こうとおもっています。
>modeさま
ご質問、ありがとうございます。
アムネスティ・インターナショナル日本は、
「先住民族の権利に関する国際連合宣言」(2007年9月13日採択)や
http://www.nichibenren.or.jp/ja/kokusai/humanrights_library/un/data/UND_RIP.pdf
「国際労働機関169号条約」(1989年6月27日採択)を引いて
「近代以降の植民地政策や同化政策によって、自らの社会や土地、固有の言葉や文化などを否定され、奪われてきた人びと」
「自らの伝統的な土地や暮らしを引き継ぎ、社会の多数派とは異なる自分たちの社会や文化を次世代に伝えようとしている人びと」
と定義しています。
ご指摘のように、すでに滅んだ民族のことを指す意味でこの言葉を使うことは一般的ではないようです。
投稿者 chiki : 2010年1月23日 21:07
>modeさま
二度に分けてのご返信となります。こちらは二つ目のコメントに対してのものとなります。
このことについては次回以降に明らかにいたしますが、そうしたアイデンティティや誇りというものは存在するのだとしても、それが現代の法体系によっては、そのままのかたちでは守られにくいということが問題であると認識しています。
したがって、modeさまのお考えとわたくしの記述は、相互に矛盾するものではないものとおもっています。
>くうべさま
コメント、ありがとうございます。
おっしゃる通りで、その保護に法がなじまないからといって、それが保護に値しないということはありません。
そうしたものをどうやってまもっていくか、そこに解決しなければならない課題が多くあって、そのいくつかにわたくしたちもおよばずながらとりくんでいます。
投稿者 chiki : 2010年1月25日 17:46
お返事ありがとうございました。
先住民についてとあれから自分でも調べて了解しました。
二つ目ですが
自分が問題にしているのは
先住民:創作物をみんなで共有する。
現代社会:著作権の考え方がある。
と、単純に二極化していることです。
依然、相違はあると思います。
著作権を保証する国家とか法律とかがない
(国籍上どこかの国家に組み込まれているのは別として)
先住民に法制上の制約が無いのはあたりまえであって、
だからといって、著作権的な考え方が無い社会かのような言い回しに疑問を感じました。
投稿者 mode : 2010年1月26日 13:08
>modeさま
ご意見、ありがとうございます。
今回の記述は、説明をかんたんにするためにきわめて簡略化したものでございますが、仰せのとおり、そのような考えかたがないわけではないものとおもいますし、「文化の収奪」に対して声をあげてきたのはそのためでありましょう。
ただし、文化として大切な価値観が、著作権法的な考えかたでは守れないものであることはたしかで、だからこそ、ほかの考えかたがもとめられているものとおもっています。
投稿者 chiki : 2010年1月27日 21:54